クリスチャン生活を続けていると、さまざまな誘惑に直面します。その中には乗り越えやすいものもありますが、なかなか見つけづらく、ついついやられてしまいがちな誘惑もあります。
今日は、その中でも多いものを3つまとめました。
さて、クリスチャンが陥りやすい誘惑とはなんでしょう?
誘惑① 良いか悪いかで判断する
これは、きっと誰でも経験があると思います。こんなふうに考えたことはありませんか?
「これっていいの?悪いの?」
「どこまでが良くて、どこからが罪なの?」
もし、私たちの判断基準がすべて「善か悪か」なのであれば、それは神の心から遠く離れています。
そして、それは偽善や人を裁くことへとつながります。
「こんな悪いことしてるからダメだよね」という判断を、自分にも他人にもしてしまうのです。
しかもそれは、イエスが「偽善者」と呼んだ律法学者のような心です。
律法学者は、罪を少しでも犯すまいとして、小さなことにまでルールを定め、善を行おうと努めました。
その動機はすばらしかったかもしれませんが、それは偽善と、イエスを受け入れない頑なさを生みました。
では、私たちの判断基準はなんでしょう?
それは、愛と憐れみです。
愛と憐れみは、律法や善悪の議論を超越します。
私たちは、「どこからが罪なの?」と自問する代わりに、「これは本当に愛から決断してる?」と自分に聞くことができます。
「こんなの悪いでしょ」と裁く代わりに、「どのくらい私は憐れみを示せる?」と考えることができます。
神は愛です。
愛によって導かれるなら、そこにはいのちと平安が伴います。
いのちにつながる選択は、「愛」なのです。
愛が導く結果がどんなものになるか、ぜひ生活の中で見つけてみてください。
誘惑② 被害者になる
「こうなったのは相手のせい」
「あの人がこうしたせいで私はこうなっている」
こんなふうに、いつも被害者になっていませんか?
これも大きな誘惑の一つです。
被害者になれば、人からの同情が得られたり、自分の立場や名声が守られるような気がします。
心の痛みが和らぎ、周りに味方をつけて「自分は正しい」と感じるかもしれません。
しかし、被害者意識は私たちには不要なものです。
誰かを訴えたり裁いたりすることなく、私たちは自分の必要をすべて満たすことができます。
そして、誰かの弱さや問題を指摘する代わりに、自分の課題に取り組むことができます。
誰かを責めて、被害者意識を持ちたくなったら要注意!
私たちの父を見て、父がなんと言っているか聞いてみましょう。
誘惑③ 大切な人を犠牲にする
教会、礼拝、奉仕、仕事・・・
それらを優先するあまり、周りの大切な人たちを犠牲にしていませんか?
これはバランスが必要な難しい部分かもしれませんが、神の心を知る必要があります。
イエスの境界線ははっきりしていました。
不特定多数の群衆を、十二弟子と同じ優先順位に持ってくることはしなかったし、イエスには大切な人を大切にするための境界線がありました。
そして、それを越えようとしてくる人に対しては「No」という態度を貫いたのです。
周りの大切な人を犠牲にすることは、神の心ではありません。
身近な人を大事にできないのに、他の人を任されることもありません。
そして、イエスが与えた命令もまた、神を愛し、人を愛することです。
まずは自分に与えられている周りの人に、どれだけ愛を注ぎ、どれだけ大切にできるか、立ち止まって考えてみるのもいいかもしれません。
いかがでしたか?
2024年春発売予定のディボーションブック「私はもっと強くなれる」で、もっと詳しく取り扱います。
お楽しみに!
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